満州の終戦
佃 亮二
 終戦の時私は十四歳、南満州の安東という町にいた。その時の経験は未だに 忘れ難く私の脳裡に残っている。記憶にあるいくつかの出来事を順を追って記 してみよう。
 (一)昭和二十年八月九日、ソ連軍満州へ侵攻。守る精鋭関東軍は既に南方 に転用されてもぬけの殻。敵軍の南下は恰も無人の野を行くが如くであった。 私達中学生は対戦車爆雷を抱いて敵戦車に体当たりすることを命ぜられていた。 あと数日終戦が遅れれば、私は確実にソ連戦車に蹂躪されていた筈だ。
 (二)ソ連軍進駐。囚人兵からなる先遣隊は暴行掠奪の限りを尽くした。わ か家もやたらに自動小銃をぶっ放すソ連兵に数回に亘り襲われた。射殺される かもしれない恐怖と、無抵抗の意志を表わすために両手を挙げざるを得なかっ た屈辱は未だに忘れることができない。
 (三)ソ連軍撤収後、中華民国政府軍と中国共産党軍の内戦が始まった。幾 度かの市街戦の末、中共軍が町を制圧した。やがて大規模な日本人中学生狩り が行われた(中学校は既に閉鎖されていた)。彼等は内戦の前戦に送られ塹壕 掘りに使われた。幾人かの級友は遂に還らなかった。私は鉄路局の苦力(人夫) として働いていたので徴用は免れたが、数十キロのセメント袋の積み卸し作業 は骨身にこたえた。
 (四)町ではかつての支配層に対する人民裁判が行われ、多くの日本人が処 刑された。満鉄幹部職員であった父は、幸い、かつての部下であった中国人の 庇護を得て人民裁判は免れたが、当然失職していた。ある日、父は残された幾 許かの家財を携えて食糧入手のため中国人集落に赴いた。その折、中国人農夫 は、父に同行していた妹を指さして「家財は不要。その娘を呉れ」と強く迫っ た。「慌てて逃げ帰ったよ」と、後日父は苦笑しながら話していた。まかり間 違えば私の妹は中国残留孤児になっていたのである。
 一年後、私達一家は祖国に引き揚げたが、この一年間の経験はその後の私の 人生観に強い影響を及ぼしたと思う。「いま私が在るのは、多くの僥倖の結果 でしかない」「あの苦労の辛さを想えば、どのような苦境にも耐えられる」と いう一種の「開き直り」の精神も、あの当時の経験の結果自然に身についたも のであろう。
佃 亮二
昭和6年5月7日生
熊本県玉名市出身・福岡市在住
〈好きな言葉〉「得意淡然 失意泰然」